高岡大仏面像竣工記念 (鳳徳山 大仏寺蔵)
(提供
高岡を記録する会
)
33年もの歳月を経て再建された悲願の三代目高岡大仏には、様々な人物の思いが込められています。
再建に向けて奔走した中心人物をご紹介します。
大仏再建の中心人物 松木宗左衛門 と 荻布宗四郎
二代目高岡大仏の焼失後、松木宗左衛門を中心とした篤志家による再建計画が動きだした。
焼失から7年後の1907年(明治40年)5月には、大仏再建のための「寄付金募集ノ義ニ付願」が富山県庁に提出され、そこには、二代目大仏と同様の『木造の仏像とお堂を再建』する計画が記されていたが、翌月作成された「高岡大仏再興事務所」の趣意書と配布された募金申込書には「銅像四丈五尺(約13.6メートル)」を作ると呼びかけられた。
趣意書に名を連ねた発起人は52名で市内の名士が網羅されており、火事に強い銅製での再建を目指すと共に、高岡の地場産業である銅器業界のさらなる発展につながる期待が込められていたと考えられる。
また、最初の申請から8年後の1916年(大正5年)2月に提出された木製から銅製への計画変更申請「大仏像改造模様替許可願」では、『前県知事の川上氏及び、地元の富山県立工芸学校(現 富山県立高岡工芸高等学校)の前校長の勧めもあって計画を銅像に変更したい』旨の記載があることから、計画頭初から両名の指南が大いにあったものと思われる。
幾多の困難が立ちはだかり、再建計画は思い通りに進まないまま長い年月が経過していた。その後、荻布宗四郎氏等の有力な資金協力を得た事で進展し、1932年(昭和7年)12月尊像蓮台及び総高15.15mの鋳銅大仏が完成。翌1933年(昭和8年)5月には開眼式が挙行されるに至り、大火類焼から33年の歳月を要し悲願成就となった。
原型師 中野双山
大仏頭部原型と中野双山(左から三人目)
高岡大仏の背中に刻まれた
「原型師 中野双山」の銘
高岡大仏の原型は中野双山(1881〜1940年)が手掛けた。
富山県立工芸学校(現・富山県立高岡工芸高等学校)、東京美術学校(現・東京芸術大学)で塑像を学び、東京美術学校の同級生には朝倉文夫や藤川勇造(ともに彫刻家)など、後の大家が在籍していた。
1905年(明治38年)頃に中退・帰郷し、大仏再建計画に携わる事となった。20代前半の若さで大仕事に抜擢された背景には、彼の塑像や鋳造に関する新知識が求められたものと考えられるが、その実、東京への進学自体、大仏再建への技術習得のためであったとの見方もある。
参考資料
高岡市立博物館「博物館ノート『高岡大仏』」(高岡市立博物館ホームページ内: http://www.e-tmm.info/hn-8.pdf )